シェフから

954年東京生まれ。暁星高校卒業。明治学院大学仏文科中退。
 小学校時代から料理が好きになり、中学の頃には母親の料理を手直しして食べる嫌な子供に成長。開店したばかりの豊島園「トラットリア・ピエモンテ」(現、荻窪)に通い詰め、革島シェフから「キャンティ」を紹介して頂き、大学を中退。14年勤めた後、マダムとともに渡伊。ロンバルディア、トスカーナ、サルデニアで修行後、95年「ベヴィトリーチェ」開店。99年シニアソムリエ資格取得。
 趣味;焚き火。猫(趣味ではなくて家族ですが)。
プロフィール
このページは、日頃感じていることや、思い出、他のページで紹介出来なかったことなどを思いつくまま書いてみようかと考えています。生来の怠け者ですので、たまに書き足していければいいかなと思っています。 
エスプレッソには砂糖を入れるべき?
イタリア人でもたま〜には砂糖を入れない人もいますし、
強制するものでもありませんが、結論から言うと、砂糖を入れたエスプレッソと入れないエスプレッソは違う飲み物だと考えた方が良い。もしくは、

    
砂糖入りがエスプレッソで、砂糖抜きは苦味を楽しむ別の飲み物

と言っても良いかと思います。例えて言えば、刺身に醤油も何もつけずに食べた時、これは刺身とはちょっと違う食べ物ではないか。どちらを選ぶかは個人の自由ですが、提供する側としては醤油をつけて欲しいのが本心、といったところでしょうか。。
 ここで雑誌「専門料理」99年9月号に掲載された文を引用させて頂きたいと思います。これは毎回違ったテーマに対してフードライターの大本幸子さんがその道の第一人者とのインタヴューを交えて記事にしていく「レストラン諸事万端・・気持ちのよい食卓をつくる人々」と題された連載です。この時は、「エスプレッソ」がテーマで珈琲工房の堀口俊英さんにインタヴューしています。ちょっと長くなりますが。。。

***<ここで日本ならではの問題がひとつある。
本来エスプレッソは砂糖を入れておいしくなることを前提として、豆の選択、ローストの具合を決めている。
しかし日本人はお茶の文化で育っているので、砂糖を入れないケースが多々あり、また、砂糖抜きの味のほうをおいしいと感じる感性もままある。この飲食習慣の違いがエスプレッソそのものの存在を曖昧にしているのかもしれない。
かくゆう私も、エスプレッソ体験の浅い頃は砂糖抜きで飲んだものだ。このほろ苦さは、抹茶に似ているから、甘み抜きで味わったほうがしっかりした食事の仕上げになると自分勝手に確信していたのだった。実に、苦く、しぶく、よく効く仕上げだとしみじみ味わっていた。ある時、砂糖を入れて飲むものだと教わり、しかも、あのカップのサイズにもかかわらずコーヒースプーン山盛り2杯入れるのを目の当たりにして仰天しつつも真似をした。おお、その瞬間にあの西洋抹茶がなんと味わい深く豊かになったことか。エスプレッソは砂糖を入れてこそエスプレッソの値打ちがあることがよく分かった。以上、日本人初心者が陥りやすいエスプレッソ体験例をご披露した。でも、あのときにレストランのサービスマン殿が「砂糖をいれるとおいしいですよ」と一言アドバイスしてくれれば、そんなまわり道はしないですんだのに・・と考えなくもない。

 この際、コーヒーの専門家に砂糖の適量を確認したい。どれくらい入れるものですか?・・イタリア人はスプーンに2,3杯いれますが、好みでけっこうです。飲み方に個人差があって、これで楽しみ方もいろいろ生まれます。たとえば一回ちょこんとかきまわして飲んで、底に残った砂糖をスプーンですくって食べる。こういうタイプが割合に多いんです。”“クリームはいれないのですか?・・クリームが欲しければカプチーノがあります。しかし、イタリア人は食後にカプチーノは飲みません。なぜなら、カプチーノは130ccですからエスプレッソよりも約100ccほど量が多い。イタリア人なら、そ100cc分デザートを食べたいと言います。最後のコーヒーは、ほんのわずかに残っているおなかの隙間に、きゅっと流し込むというイメージなんです。
>***<堀口さんはこういった土地の嗜好や流行を頭に入れて、ミラノ的な北の料理の店と南イタリア料理の店では、当然、ブレンドを変える。フランス料理店も同様に、繊細な料理を扱う店ではロブスター種の割合を減らす。>***

 
堀口さんとはベヴィトリーチェのブレンドを決めるためにマシンの技術者と3人で随分エスプレッソを飲みました。その後もよく食事にきて下さいますが、初めは少し緊張しました。グルメ本(レストラン評価本)を出そうかと思っているんだと言っていたこともありますが、レストランで食事をして「ここのコーヒー豆は腐ってる」とか平気で言ってしまうとの噂を聞きましたから。でも、こちらもビジネスですから、豆が届く度にチェックして、ちょっとでも違うと思えばすぐに電話します。コーヒー豆は農産物ですから、当然天候の影響も受けますし、内戦といった政治的なことも絡んだり、常に良質の豆を手に入れるというのは大変なことのようです。その一定でない豆をローストとブレンドによって一定の味と香りに仕上げるのですから、並大抵のことではないのは理解していますが、電話します。豆が美味しいのはローストして10日から、ぎりぎり2週間だと思っているので10日以内に使い切るように注文を出します。堀口さんのところでは、注文を受けてからローストするので(当然!)、ローストした翌日には届くのですが、3日目位までは、味わいが非常に軽い為、挽く大きさを小さくして、量は(一定時間で抽出する様に)少なくします。ですから、豆が届く度に2回、挽く大きさと量を調整するので、注文量の3分の1はチェックで無くなってしまいます。という様な気を使っているので、砂糖を入れて飲んで欲しいんだよなァ。
 
堀田 彰(ほった あきら)
イタリアの皿洗い


 イタリアのキッチンでは、コックは洗い物をしません。

 鍋やフライパンは勿論、味見したスプーン1本でも洗い場に出します。洗い場には、洗い物専門の人がいてすべて洗って持って来ます。大抵は外国人労働者ですが、差別しているというのではなく、役割分担がはっきりしているという感じです。コックとしてはその方が有難いのですが、それがかえって裏目に出てしまうような事態が起こりました。それは、トスカーナの「V」というお店でのことでした。

 イタリアで働くコックは大抵、寮に入ります。寝るところさえ確保出来れば、食事は店で出ますので、もし給料をもらえなくてもしばらくは生きていけるし、無給の方が勤め先を見つけ易いので、そうやって次々と店を渡り歩く人もいます。ただ、僕はマダムと一緒に行ったのでそうもいかず、部屋を借りていたんですが、「V」は田舎の一軒家レストランでまわりにアパートのようなものもないため、オーナーの家に住まわせてもらうことになりました。といっても、脇を人が通るような一角にベッドを置いてもらっただけですが。
 そこは小さな村だったので外国人労働者がいなかったんでしょうか、イタリア人のおばさんが洗い場を受け持っていたんですが、
なんとそのおばさん、僕らが行った次の日から体調を崩したと言って休んじゃったんです。これ、オーナーの陰謀じゃないかと疑ったんですが、真相は闇の中。そして当然のように洗い場はウチのマダムの担当になっちゃったんですね。イタリアではいろいろ辛い思いをさせました。
 
洗い場の1日・・・朝出て行くと仕込みで使った鍋やフライパン、それも持ち上げるだけでも大変な大きさのが山積み。それを何とか洗い終えると、すぐにランチ。その間は勿論、鍋やフライパンを洗い、その後食器、シルバー、グラス。今度はそれを全部拭き上げる。食事をして、ちょっと仮眠をとると、また洗い物の山。ディナーで、もう一度同じことを繰り返す。
 一ヶ月もしたら、指の爪まで自然と削れて爪切り不要のぼろぼろ状態。このままでは、マダムの体がもたないと、そうそうに辞めました。でも、イタリアで皿洗いをしたマダムなんてそういないでしょうから、ちょっとえばっても良いかも知れませんよね。
 ただ「V」は辛かっただけかというと、仕事以外は楽しい思い出が一杯でした。まず一緒に働いていた日本人コックのK君と親しくなったこと(彼は帰国後「L」開店からS口さんの片腕として活躍していますが、今でもよく3人でワインを飲んでます)。それから、賄いは何を使っても良いと言われていたので、好きなものを作って、ワインとともにプールサイドで食事。レストランの賄いは普通、昼食はランチの直前に、夕食もディナーの前に食べるのでちょっと落ち着かないし、第一ワインを好きなだけ飲めないんですが、「V」では昼も夜も仕事の後だったので、夜は特に好きなだけ飲めました。週休2日だったので、ちょっと遠いレストランまで食事に行ったり、オーナーも遠い町までピッツァを食べに連れて行ってくれたし、結構良い店でした。
 その後、フィレンツェの中心街のトラットリアに移りました。
ホームパーティー(その1)

 ベヴィトリーチェを開店してからはほとんどしなくなりましたが、コックになってからずっと年に1〜2回、多い時には4〜5回、自宅に友達を呼んでご馳走していました。おいおいお話していくことになると思いますが、僕がコックになったのは、よく言うところの趣味が高じてという奴でした。しかし、調理場に入っても覚悟していたとはいえ、掃除と洗い物ばかりの毎日。そのストレス発散が友達へのご馳走だったのだろうと思います。新婚時代は6畳一間で、布団を2枚敷こうとすると端がめくれ上がってしまう様なアパートに暮らしていましたが、そこに10人呼んでフルコース10品以上の料理を出したこともありました。

 
1回目は24年前、キャンティーに入って1年半。最初の1年4ヶ月は製菓部に配属されていたのでキッチンに入ってから2ヶ月目の頃。(火の前に立つのを許されたのはそれから2年後でした)
その日の料理は
*最初、テーブルにラディッシュと塩だけ。壁に1枚、ラディッシュの版画を掛けて。勿論、     版画を気に入って買ったのが先で それに合わせただけですが、結構好評でした。
*一皿目はちょっとこけおどしの料理で、50センチ位のサーモンを丸ごと。エストラゴンや赤     ピーマン、オリーブで絵を描いてゼリーをかけたオードブル。
*次は舌平目のテリーヌ(アメリカンソースとクレソンの青寄せで金太郎飴みたいに模様をつ     けて)と真ん中にフォアグラを入れた仔牛のテリーヌ
*それから帆立のムニエル、生ウニのクリームソース、ヴェルモット風味
ポーチドエッグのドミンゴ風
ローストチキン

 当時は招いた友達も皆若かったので、こんな程度でも充分驚いてくれましたが、次第にお客の方も成長して、一筋縄ではいかなくなって行きました。そこで何年かしてからは、毎回違った企画を立てるようになりました。例えば
「白トリュフと黒トリュフの食べ比べ」。白と黒は採れる時期が違うので、新鮮なものを同時に食べられるのは、年にもよりますが1年の内でも10日位。時期も毎年ずれるし、その間の日曜となるとほとんど年に1日。その日に先約のなかった幸運な者だけがトリュフ尽くしの料理にありつける。そんなことをやっってました。他に印象に残っているのは、茶会(茶の湯の)を一緒にやった時と映画「バベットの晩餐会」をビデオ鑑賞してから再現した時。
 でも、ちょっと長くなりそうなので、続きは次回に。
 

 
焚き火と暖炉

 シェフのプロフィールに趣味;焚き火と書いたら方々から何処で焚き火してるんですか、と聞かれて困りました。
 焚き火好きには違いないのですが、実は昔、俳優の渡瀬恒彦さんがそう答えているのを見て、かっこいい、いつか使ってやろうと思っていただけでして、最近は全くやっていません。ごめんなさい。

 でも皆さんもキャンプの夜、焚き火を眺めているだけで、癒されていく思いをした方も多いでしょう。あの炎の力は、原始時代からの記憶がDNAに刻み込まれているとしか思えない特別なものですね。

 僕が最初にキャンプをしたのは、中一の夏休み、八ヶ岳でした。子供の頃から動物好きで中学では迷わず生物部に入部、最初の合宿でした。暁星の生物部は古くは詩人・随筆家の串田孫一さんも入っていたという結構歴史のあるクラブなんですが、僕が入部する十数年前から、夏は八ヶ岳に一ヶ月以上テントを張って、交代で合宿するようになっていました。テントはすぐ脇を小川が流れる唐松林の中だったので、小川の水と唐松の枯れ枝で毎食料理を作りました。
 そんなキャンプが原体験なので、自然保護の観点からは致し方ないのは解っていても、焚き火禁止、バーナーで料理するような最近のキャンプ場はどうも好きになれないでいました。
 そこで、いつの日か、もし家を建てるなら暖炉のある家を建てたいと思うようになりました。しかし、焚き火と暖炉は違うものでした。それは、イタリアで・・・


 
イタリアで最初に働いたのは、パヴィアというミラノから電車で30分程のロンバルディア州の街です。ローマに着いて一ヶ月、通りの角々に設置された巨大な塵の収集用ボックスからは塵が溢れ出て、下を向いて歩いていないとすぐに犬の糞を踏んでしまう。随分汚い国だなと思い始めた頃パヴィアに移りました。そこは全くの別世界。道に塵一つ落ちていない、街を歩く人達は皆綺麗に着飾り、若い女性はミニスカートに毛皮のコートを羽織って颯爽と歩いていました。しばらく住んでみれば、皆が皆お洒落という訳でもなかったんですが、清潔なのは本当。集合住宅では塵の集積所が敷地内にあって、収集車の人が門を開けて中まで取りに来てくれるので、道からは一切塵が見えない仕組みになっていたし、また地方都市によくあることですが中心街への自動車侵入禁止というのも街を美しく見せたのでしょう。

 その綺麗なパヴィアは有名なパヴィア大学の学園都市でもあって、ということは、学生が多く、新年度が始まる時期、安アパートはみんな学生に占領されてしまうのでした。僕らがパヴィアへ来た10月末もそんな時期だったので、レストランのオーナーがやっと探してくれた家というのが・・・・
 最初、そこへ案内された時、まず目の前に現れた3m程の木製の門は今にも腐って崩れそうな代物、やはりこんなところしかないのかと、内心ちょっと情けなくなりながら扉の一部が開くようになっている通用口から中へ入ると、なんとそこは
女性月刊誌のプロヴァンス特集のタイトルページみたいな中庭。外は昔のままの姿を残し、内部だけ新しく改装するというのが、ヨーロッパのお洒落だったんですね。そこから改めてアパートに入れば、改装したばかり、3階までの3フロアー。シャワー・トイレ2箇所、そして暖炉のあるアパートでした。それを見て、憧れの暖炉!という喜びも全くなかったかといえば嘘ですが、それ以上に気が気じゃあなかったのが家賃の心配。仕事は無給、家賃は自腹。日本から持ってきた貯金でいつまでいられるか。でも、その時は働ける店がみつかっただけでも有難かったので、とにかくここで働こうと決心、ちょっと苦い暖炉生活が始まりました。

 日本では暖炉のカタログを取り寄せて、理想の暖炉の図面を書いたり、夢想にふけっていたんですが、現実は大分違っていました。
 暖炉についての第一の誤解は暖かくないということ。最近のストーブタイプは暖房能力もかなりあるようですが、昔ながらの暖炉は極端な話、体の前面は暑いのに、背中は寒いといった状態になりかねない。でも暖房に関しては各部屋に付いていたので、さほど問題ではなかったんですが、第二の誤解は致命的でした。焚き火ほどには癒されない。これには驚きました。炎を見ていれば気持ちはいいんですが、焚き火に較べると半分以下。それは多分僕の中での焚き火は、真っ暗な森の中で周りからは小さく虫の音が聞こえ、微かに動く空気には湿った土と草の香り、といったもの達とセットになって存在していたのでしょう。さっきまで食べていた夕食の匂いが残る中、テレビの声を聞きながら炎を見詰めても全然違うんですね。部屋を暗くして、窓を少し開けてみたり、いろいろと工夫してはみても何かが違う。炎が日常の一部になってしまったんですね。
 当時は、将来無理して暖炉付きの家を建てずに済んだ。良い勉強をしたと思っていましたが、どうせ夢に終わるんですから、そのまま見させて欲しかった。
スパゲッティの食べ方

 スパゲッティの食べ方を教わったのは確か伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」だった。

ひさしぶりに を読み直してみたいと、あちこちの書店を巡ってみたが見つからず、注文したらナント!!版元にもないという。ナゼ?!
伊丹さんは映画監督としても俳優としても素晴らしかったけれど、僕にとってはまずはエッセイストなのに。 直接お会いしたことはなかったが、勤めていた「キャンティ」の裏のマンションにお住まいだったので、よくお見かけしたし、長男の万平君とは、たぶん小学校に入ったばかりの頃だろう「これからゴーカートに乗りに行くんだー」とかテラス越しに何度か話したことがあった。

  [ヨーロッパ退屈日記」を読んだのは大学に入ったばかりの頃だった。
「フランス料理研究会」というサークルを作り、なにかイベントをやろうと考えていた時だったので覚えている。当時、流行りはじめたスパゲッティ専門店を借り切って「スパゲッティの食べ方講習会」をしようかという企画があったからだが、実行はしなかった。(実際には「ワインの試飲講習会」や「クレープの実演販売」、学祭では演劇や音楽のサークルと共同でカフェを開き、オムレツを出したりした。)

「ヨーロッパ退屈日記」スパゲッティの食べ方に話をもどすと、
その説明は簡潔にして完璧、非常にわかりやすいものだった。思い出すままに要約すると
1.まず、スパゲッティを皿の向こう側に押して、手前に、巻くためのスペースをつく  る。
2.一口で食べられる量のスパゲッティをフォークで掬いあげる。
3.1のスペースにフォークを垂直に立て、皿にぴったり押し付けたまま最後までスパ  ゲッティ  を巻き取る。

これから食べようと思っているスパゲッティと、皿に残っている本体を隔離することが大事で、それが出来ないと巻いているうちに量がどんどん増えていってしまう。

 そんな面倒くさいことをしなくても、スプーンを使えばいいじゃないか、

と思う人も当然多いだろう。でもイタリアでは、フォークだけでスパゲッティを食べられないのは、ちょっと格好悪いし、時には、家でちゃんとした教育を受けてこなかったんじゃないかと思われることもあるらしい。ということは、つまり

      日本人にとって「箸が正しく使えない」という感覚と同じ

ではないかと勝手に解釈しているのだが、今度イタリア人に聞いてみよう。

 と、ここまで書いて実際に聞いてみた。

「そんなことないよ〜、スプーンを使う習慣がないだけで、かえってエレガントかも。」

ガーン、こういう思い込みって多いんだよね。むかし教わったことなんか怪しいものなのに、疑っていないから確かめない。これじゃあ、イタリアで暮らしていた意味がない。

 僕の若い頃は、コーヒーカップの持つところ(取っ手)は左側に向けて出すのが正しいって教わったけれど、それは明治時代に出版された作法の本にそう書かれていたかららしい。誰が伝えてきたんだ?これはNHKで言っていたのでたぶんホント。。。?


            
追記

 
実はその後、他のイタリア人にも聞いてみたところ、人によって、特に年代によって随分見かたが違うようでした。
 中には「スプーンを使うイタリア人も最近はいるが、それはアメリカに移民したイタリア人が持ち帰った悪しき習慣であり、それを真似るなどとんでもない。
スパゲッティーは絶対にフォーク一本で食べなくてはならん!」やっぱり箸とおんなじかァ。ああ、それから「もちろん、ピッツァはナイフとフォークで食べるのじゃぞ!」

 
紅茶について

 前にエスプレッソについて散々書いたあとでナンですが、僕は紅茶党です。

 朝、ミルクティーを入れてからマダムを起こすのは、結婚以来18年の習慣です。
ただ、ミルクティーを飲むようになったのはそれよりずっと前、たぶん、高校一年くらいだったでしょうか。

 
 もともとがお茶好きの家族で、もっぱら日本茶だったが、暇さえあれば飲んでいた。
それが中学になった頃、世の中では「コーヒー専門店」が流行りだした。なんのことはない、喫茶店なんだが、カウンターにサイフォンが10個ぐらい並んでいて、1人前ずつボコボコやってくれる。
 でもそれを初めて見た時はドキドキしたなァ。
それ以前の喫茶店といったら、いつ作ったんだかわからない黒く濁ったのを手鍋で暖めて出していたんだから、カルチャーショック、革命だね。コーヒー豆に種類があるなんていうのも知らなかった。
そこで当然コーヒーに嵌っちゃう訳だ。手挽きのコーヒーミルなんか買い込んで、「やっぱりモカとキリマン、3対1だな」とか言いながらゴリゴリ。ゴリゴリ。そしてそのあとは、人に飲ませたくなるのが人情。今、思えばよくまあ付き合ってくれたもんだっていうぐらい家族に毎日飲ませてた。

 それがいつのまに紅茶になったのか、その辺のことはよく覚えていない。高校に入った頃、イギリスのメーカーTの宣伝が急に始まり、たぶん、お中元かなんかで戴いたのを飲んで、また嵌っちゃったんだろう。
その後、他のメーカーを試し、それからデパートで買ってみたり、といっても当時のデパートでの紅茶は、20種類くらいあるコーヒー豆の片隅に「ちょっと間借りさせてもらってます」状態で2・3種類しかなかった。その点、新宿の高野は、リキが入っていた。カウンターの中でサリーを身にまとったインド人女性が目の前で紅茶を入れてくれるコーナーがあって、紀伊国屋へいく途中よっていた。ニルギリなんていう葉っぱを知ったのもそこだった。
 紅茶もコーヒー同様、家族に飲ませ倒していたら、いつの間か、毎晩10時頃に家族でミルクティーを飲む習慣が出来てしまった。と言っても、英国家具に囲まれたリビングで、マイセンのティーカップ・・・なんていうのを想像されると困るんで、掘り炬燵に入って、テレビを見ながら羊羹を食べていた。

 紅茶好きといっても、フレーバーティーの好きな人もいれば、ダージリンのストレート派もいるだろうが、僕は当時から断然ミルクティー。しっかり濃い目にいれた中にたっぷりの牛乳。最初は牛乳も温めていたが、今は英国式に冷たいまま。葉の種類も、その日の気分で時には変えるものの、ここ10年くらいはキーマン2:アッサム1のことが多い。だから

   
 ベヴィトリーチェの紅茶も、開店からキーマン2:アッサム1。

異論のある方も多々いらっしゃるでしょうが、自分たちが好きなもの以外店には置かないというのが、ベヴィトリーチェのコンセプトなので申しわけありません。
吉田 健一さん(その1)

 神保町の「ランチョン」で久しぶりに食事をした。いつの間にか、お店は建て替えられて大きなビルの2階に。いつ頃建て替えたのか、若主人らしき男性に聞いたところ、23年前だとか。そう、僕が友達のT植君とランチを食べに行っていたのは浪人時代、もう30年も前。
 吉田健一さんが昼間からビールを飲むのが好きだったという「ランチョン」のランチには小さなビールが安く付いてきて、不謹慎にもたまに真似をさせて頂いていました。

 吉田健一さんの本を最初に読んだのは高校2年。友達のY田君(彼については別の機会にゆっくりと)が、ある時「現代日本知識人必読書というのが3冊ある」と言い出した。曰く、丸山真男「日本の思想」、九鬼周造「いきの構造」、和辻哲郎「風土」であると。そして番外として吉田健一「私の食物誌」。


 「日本の思想」は読んだという記憶しかないが、他の3冊は覚えている。
 「いきの構造」を読んだ時の感覚は鮮明で、脳の錆びついた歯車が動き出したギリギリという音が頭の中からハッキリ聞こえた。そのまま動いていればとも思ったが、その後30年錆びついたまま。

 感動したのは「風土」。
 雨が冬に多く、夏に少ないヨーロッパでは比較的自然が御し易く、そこから論理的思考が生まれた。夏に雨と台風の多い日本では自然は人間の力の及ばない存在。そこから諦観が生まれる。初めてヨーロッパを船から「見た」印象でそこまで考えが広がっていく。「ものを見る」ということの深さを教えられた思いだった。その後、和辻哲郎に嵌って、次々と読破、と言いたいところだが、「古寺巡礼」で一杯一杯。「日本古代文化」の途中で息が切れ「倫理学」で完全にノックアウト。
 
 結局、4人の著者の中で読んだといえるのは吉田健一さんだけ。「私の食物誌」はただただ面白く、他のエッセイも手当たりしだいに、小説も大体読んだと思う。

 ただその頃は、何年か後、吉田さんのお宅にお邪魔することになるとは、思いもよらなかった。その話はいずれまた。

 
アメリカンソースの香り

 春、これからの季節、良い甘海老が入るとメニューに載せるのが
 
     甘海老の冷たいカペリーニ、フレッシュトマトとバルサミコのソース

 ベヴィトリーチェ開店以前から作っていたからもう10年来のメニューになりますか。作り方は「メニュー」のページに譲るとして、その時に甘海老の頭が残るので他の海老殻なども一緒にしてアメリカンソースを仕込みます。主に魚介系のソースに甲殻類のアクセントを付けたい時に使うんですが、それを作っている時の香りを嗅ぐといつも胸がキュンと切ない思いに襲われ、30年前にフラッシュバックしてしまいます。。。。

 18歳で、自分が本当にやりたいことを見つけている人がどれだけいるでしょうか。

 進学校に通っていたためというのもだらしがない話ですが、高校時代の僕も将来の選択イコール大学の学部の選択でした。子供の頃から生き物が好きだったことから、環境保護の仕事にでもつければと、ある国立大学の環境緑地学科を選んだものの落ち続け結局3浪しました。ただ本当に勉強したのは最初の半年くらい、あとは惰性で、もしかすると、最近流行りの引きこもりに近い精神状態だったかもしれません。朝、家は出るものの、予備校の授業にも出たり出なかったり、勉強しなくてはと思いつつも手に付かず、鬱々とした毎日。
 ただその頃も料理だけはしていました。よく料理は気分転換によいなどと言っている人もいますが、当時の自分にとって料理は現実逃避の道具。ただ、料理をしている間だけは何もかも忘れていられる幸せな時間、と言いたいところですが実際には常に頭のどこかで、こんなことをしていちゃいけないという声が響いていて、それが辛く、泣き出したいような気持ちで料理を続けていました。両親が寝入った夜中の2時頃から、時には朝6時頃まで手の込んだ一品を仕込むこともよくありました。プロを対象にした料理本を片っ端から買って、厨房の道具類もかなり揃えていたので、そこそこのものは作れました。当時の有次寸胴鍋など、今も店で使っています。

 三浪目の秋、断食明けのある日。といってもイスラム教徒ではなくて、ヨガをやっていただけです(浪人中にそんなことやってる奴いねェ〜よ)。「自分は一体何がやりたいんだろう」とボーっとしていたら、「料理」って、思いついたというか、降ってきたというか、とにかく決めました。ただどう携わっていくか、料理の先生なのか、料理研究家なのか、適当な大学に入ってゆっくり考えることにしました。そして間もなく、ちょっとした縁で料理の先生の息子の家庭教師をすることになり、そこで垣間見える仕事の周辺のベタベタしたものというか、今考えればどこにでもある仕事上の人間関係だったんでしょうが、そんなものが割り切れず、「男一匹この腕一本で生きていってやるわい!」と大学を中退、コックになりました。


 アメリカンソースの香りを嗅ぐ度、正確には仕込んでいる時の香りをを嗅ぐ度に、30年前、富山の親戚が送ってくれた蟹や甘海老の殻で夜中にアメリカンソースを作っていた頃の自分が甦り、なぜかとってもいとおしく、センチメンタルな気分に包まれてしまいます。

 その後には決まって当時の両親に、よくぞあんな長い間放っておいてくれたという感謝の気持ちがおこってちょっと胸が暖かくなるのでした。


トスカニオ '90

 しばらく前、西森さんからイタリア土産にワインを戴きました。西森さんは建築家としても有名ですが、イタリアワイン好き、というよりも雑誌にも登場するほどのイアリアワイン通で、イタリアワイン専門のサイトも主催しています。その中に「レストランのお勧め」という、リストランテのソムリエお勧めのワインを載せるコーナーがあって、幾つかの店を紹介してくれています。だいぶ前に更新されているので、あくまで僕の記憶の中の文章ですが、ベヴィトリーチェは「なんと言っても印象的だったのは、初めて来店した際、マダムがトスカニオというワインをバカラのカラフにデカンティングしてくれたことだった。」と紹介してくださいました。その
トスカニオの98年がお土産のワインでした。


 ワイン好きなら、特に好きなワインとか思い出のあるワインが一本くらいあるのではないでしょうか。僕にとってはそれが
トスカニオ TUSCANIO'90です。 
 ただトスカニオについて話す前に、それを造っているワイナリーのオーナー宮川秀之さんのことから話させてもらいたいと思います。本人から直接伺った話ではないので、間違っているところもあるかもしれませんが。。。

 
 1960年早大時代、オートバイ世界一周旅行を計画した宮川さんは、ベトナムからアジア大陸を横断してヨーロッパへ。イタリアに入った時に自動車ショーのコンパニオンをしていたマリーザさんに一目ぼれ。彼女が出した結婚の条件は「アフリカの難民の子供を引き取って育てたい」というものでした。その後の自動車業界を中心とした宮川さんの活躍は、立志伝中の人物というか、ほとんど伝説になっているようですが、あまり詳しくないので割愛させて頂きます。結婚後、4人の子供に恵まれ、余裕の出来た宮川さんとマリーザさんは、韓国とインドの孤児を引き取り、ハンセン病患者を親に持つザンビアの子供四人の親代わりになりました。

 
 10年ほど前、法政大学の陣内先生に紹介して頂いた頃、宮川さんは、トスカーナに農園を造り、心に痛手を負ったり、ハンディ持った子供達を、有機栽培の農作業や健康な食事を通して元気にするという活動を進めていました。
 当時僕がシェフをしていた四谷三丁目の「ラ・ヴィータ」で、日本から参加する不登校児のご父兄たちとの昼食会を開いたり、家族でも何度か来店されました。実を言うと宮川さんも素敵でしたが、なんといってもマリーザさんの素晴らしさといったら、すぐにファンになってしまいました。日本語は完璧、なぜかハーフのはずのお嬢さんや息子さん達より日本人らしく、絶対に前世は日本人。優しく温かく、それでいて自信に満ちて「エレガントな肝っ玉母さん」といったところでした。



 
そんな宮川さんが造ったトスカニオを初めて飲んだ時の印象は、ただただビックリ。

 当時、まだそれ程ワインに詳しくなかったとはいえ、高校時代から飲み始め、修行時代やイタリア時代を経て、ワイン学校にも2年通いましたし、そこそこの量と種類は飲んで来たつもりでしたが、あんなに凝縮感のあるワインは初めてでした。これなら10年はおろか20年は確実に美味しくなっていく。まして日本にはまだ一本も入って来ていないとなれば。。。これを買っておけば、もし店を開いた時には、お客さんを呼ぶ目玉になるぞ!と。今、振り返ってみても、ここまでの考えは正しかったと思います。
が、イタリアで貯金を使い果たして帰国2年目。必死で貯金している時期で店を開くことなどいつになるかわからないのに! 初めて輸出するワインは公的機関で成分分析をしてもらって、その書類を提出したり、いろいろと面倒なことがあるのも知らず! 輸送の手続きも、輸送料も知らず! 保管する場所もないのに!
    
   
TUSCANIO'90・・・50ケース600本買ってしまいました


 この年が初めての出荷で1500本ということでしたから、実に生産量の40%を買い占めてしまったことになります。
 度胸がいいというより無謀の一言。でも結果的には、以前から知り合いだった荻窪・野田屋酒店の野田さんが採算度外視で間に立って下さって、到着したワインも八ヶ岳のセラーに預かってくださいました。運良くすべてが順調に運んで「ラッキー。うまくいく時って案外こんなものなんだよね。」と喜んでいたのですが、
トスカニオは

    
輸入3年後には半分以上飲めなくなってしまいました。

 その後も悪化は進み、西森さんが来店した頃には、3本開けてやっと一本飲めるという状態でした。
 原因ははっきりしませんが、やはりワイン造りの経験が足りなかったということでしょう。5本に1本くらいコルクがひしゃげてましたし、多分、酸化防止剤(SO2)を極端に控えたのではないでしょうか。

 宮川さんには何も言いませんでしたが、その後、なんとなく疎遠になってしまったのが残念です。

 
 何年か前、トスカニオがワインコンクールのオーガニックワイン部門で金賞を取ったという噂を聞き、うれしくて、懐かしくて、また飲みたいと思っていましたから、西森さんのお土産はとてもうれしいものでした。
 
    もくじ

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